ドラマでカタカナっぽい名前の登場人物が出てきた。
私「子どもの名前は日本らしいのがいいなー」
夫「じゃあジャパンにしたら?」
私「それ、日本らしいんじゃなくて日本そのものやん」
夫「ヤマサキジャパン!」
私「だっさ!!」
夫「いいやん、世界で通用するよ」
私「もうどこから突っ込んだらいいのかわからんわ」
チーム名ならなで○こジャパンみたいな感じで良いかもしれないけど、人名でそれはない。
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今日はちょっと真面目に子どもの話を。
世間ではそれなりの歳になると、結婚して子どもを産んで……という流れを希望することが一般的だと思う。
でも私は長いこと、子どもはいらないとは思わなかったけど、欲しいとも思えなかった。厳密には「産まなかったら後悔すると思うけど、産むにはためらう理由が多すぎる」といったところ。
それどころか誰かと付き合うことすら嫌がっていたのだけど、それはまた別の機会にでも書こうと思う。
子どもに関して悩んでいた理由は主に以下の通り。
1. 一人の人間を育て上げるなんてそんな失敗の許されないこと、未熟な自分には荷が重すぎる。
2. 自分には子どもを求められるだけの正当な理由がないから、親になる資格がない。
3. 大人になってから子どもへの接し方がわからなくなってしまい、子どもの扱いが下手なので、上手くやって行けるかわからない。
4. 子どもは可愛いと思うけど、死ぬほど大好き!めっちゃ欲しい!なんて思ったことがないので、そんな人が子どもを持って良いのかわからない。
5. 虐待してしまいそう(虐待されて育った子はその子どもにも無意識に虐待する可能性が高い)。
6. ただでさえお財布が寂しいのに働けなくなったらどうしよう。
7. 死ぬかもしれない(母は私を産んですぐ亡くなり、しかも私は母の体質の悪いところばかり遺伝してしまっている)。
これらは考えれば考えるほど苦しくなって、子持ちの友人の話を聞いたりするのもつらかった。周りは子どもが欲しい、可愛いと言っているのに、どうして自分だけこんなに異常なのかと。
しかもみんな25歳~27歳の間に次々と産んでいるし、高齢になるほど難しくなるということで焦りもあった。
ネットで調べると悪い情報だけが頭に残ってしまい、子どもを欲しいと思えない自分は女としても生き物としても失格で、社会のゴミなんだと落ち込んでばかりだった。実際に心ない言葉を浴びせられたこともある。
大学時代は児童虐待の本を読み漁ったけど、それがかえって不安を煽ることにもなっていた。
周りは普通に結婚して普通に望んで子どもを産んだ人ばかりで(逆の人もいるけど)、誰にも話せず、こんなひねくれたことばかり考えてしまうことを理解してもらえるとも思えなかった。
そうして考え続けて10年程経った現在。本当についこの前まで頭の中はこんな感じでがっちがちだったのだけど、今は不思議と脳味噌が柔らかくなった気がする。
今考えると、精神的に余裕がなかったのが一番大きかったのだろうと思う。
具体的にどう考えるようになったかというと、
1. 一人の人間を育て上げるなんてそんな失敗の許されないこと、未熟な自分には荷が重すぎる。
→そんなこと言ってたら一生産めない。
2. 自分には子どもを求められるだけの正当な理由がないから、親になる資格がない。
→正当な理由って何だろう。生き物として子孫を残す?立派に育てて社会貢献?
考えても考えても、どれもエゴでしかなかった。全ての子どもは親の勝手で産まれてくる。そういうものだし、それは仕方のないこと。
3. 大人になってから子どもへの接し方がわからなくなってしまい、子どもの扱いが下手なので、上手くやって行けるかわからない。
→子どもは小学生レベルの身体機能や言語能力を持って産まれる訳ではない。最初は赤ちゃんなのだから何とかなると思う。
4. 子どもは可愛いと思うけど、死ぬほど大好き!めっちゃ欲しい!なんて思ったことがないので、そんな人が子どもを持って良いのかわからない。
→子どもはいつまでも子どもではない。迎えるのは「子ども」というより「家族」と捉えるべき。
5. 虐待してしまいそう。
→少なくとも意識下では自分がされたことはしたくないと思っているし、そこまで自分を落としたくない、親と同じにはなりたくないというプライドもあるので、大丈夫な気がする。
6. ただでさえお財布が寂しいのに働けなくなったらどうしよう。
→何としてでも働け。それに夫は空気か。
経済的な問題に関しては具体的に調べてみた。頑張れば何とかなる。
7. 死ぬかもしれない。
→その時はその時。
具体的に欲しいと思ったきっかけというのは特にない。祖母がいないことにも慣れてきて、親とも縁を切って心身共に安定した生活を送れるようになってから、いつの間にか「子どものいる温かい家庭が欲しいな」と思うようになっていた。
しかも不思議なことに、それに対して「そんな自分のわがままのために産むのか」と罪悪感を覚えることもない。今は素直にそれで良いのだと思える。
と、ここまで完全に自分のことばかり書いてきたけど、夫がどう言っているかというと「どっちでもいい」。
「子どもができればそれでいいし、できなくても欲しいなら養子という手もあるし、欲しくないなら二人でのんびりやって行けばいい。俺は子どもが欲しくて結婚する訳じゃないんだから。ゆっくり考えればいいよ」とのこと。
逆にそんなにあっさり言われると「どれもそう簡単なことじゃないぞ、本当にちゃんと考えて言ってるのかな」と思ってしまうけど、それなりの期間付き合ってきたので本気なのだろうというのはわかるし、私には何よりありがたい言葉だった。
そうだ、女失格とか生き物失格なんて他人に言われる筋合いはない。パートナーである夫がそんな自分でも良いと言ってくれるならそれで良かったのだ。
ただ、一つだけ心に留めておきたいことがある。「子どもが子どもであるためには、大人が大人でなければならない」ということ。
感情のままの言動で、自分が一番偉い・一番可哀想と思っている私の親のような人間に育てられると、私のようなひねくれ野郎ができあがる。それだけは避けたいし、夫のように視野と懐の広い人間になって欲しい。
という訳で、まずは授かるかどうかもわからない数年後の子どもと大切な夫のために、遺書を書いておこうと思う。遺書にならなければそれで良いし。
ほとんどの人が産めて当たり前と思っているだろうけど、出産は命がけなのだ。私はスポーツにおける体力(夫に言わせればただの根性らしいけど)にはそれなりに自信があるけど、内臓など体自体は決して強くない。脳味噌も強くない(それは関係ない)。
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ついに今週末には結婚指輪のプロトタイプが届く……!
これで漫才しかない夫婦に、夫婦らしさが宿るのか!?
…………ないだろうなー。