割チョコはなくなったけれど

 先日で阪神・淡路大震災から20年ということで、地震関連のことを振り返ってみる。

※当時住んでいたのは京都
※ただの個人的な振り返り
※書いているうちに真面目文になったのでもう全部その文体にした

 当時私は小学4年生で、いつもは2階で寝ていたのだが、たまたま母が帰省していたので1階で祖母と一緒に寝ていた。
 起床時間は6時半だったのにその日はなぜか6時前に目が覚めて、横を見ると祖母も目を覚ましていた。
「あれ、おばあちゃんも目ぇ覚めたん?」
「うん」
「えー、なんでやろな」
 当時は一度眠ると起床時間まで目を覚ますことはあまりなかったので不思議だったが、今思えばあの時すでに揺れが始まっていて、それを感知して目が覚めたのではないかと思う。地面に近い1階に布団を敷いて寝ていたというのもあるかもしれない。
 それから10秒ほどだろうか、何気ない会話をしていると、突如形容し難い轟音と揺れが襲ってきた。
 私には何が起こったのかわからなかったが、即座に理解したらしい祖母が私に布団を被せて上から覆い被さった。そしてその一瞬前、照明のコードが宙に踊るのが見えた。
「(え、え、これってもしかして地震!?
 じゃあ何か落ちてきたらおばあちゃんに当たるやん! どいて! おばあちゃんどいて!!)」
 しかし祖母は、当時の私にはなかなかの巨体だったため身動きが取れず、がっちりと押さえ込まれてしゃべることすらできなかった。
「(~~っちょっと待って苦しい! 息できひん! 死ぬ! どいてーーー!!!)」
 命がけで守ってくれた祖母には申し訳ないが、揺れが続いていたらあれが原因で窒息死していたかもしれない。
 その時2階で何かが盛大に落ちる音がしたが、とりあえず後で確認することにした。

 揺れが収まって布団から出ると、照明のカバーの一部が外れて傾き、コードがゆらゆらと揺れていた。
 大人でも重い、大きな照明のカバー。厚い布団の上からとはいえ、全部外れていたら落下して祖母の下半身を直撃していただろうと思うとぞっとした。
 そこに隣の部屋から祖父が「大丈夫か!?」とラジオを持って飛び出してきた。それを気にも留めず目の前のテレビをつける祖母。ラジオ意味ないやん、と祖父を少し可哀想に思ったところで、テレビに映し出された光景に絶句した。
「まるで空襲やわ……」
 ぽつりと祖母が言った。
「嘘や……今の一瞬でこんなんなったん……?」
 さっき布団に潜っていたわずか1分ほどの間に、こんなことになった場所がある。テレビ越しだがこれはドラマでも何でもなく、現実に、現在進行形でどこかがこんなことになっている。信じられなかった。
 それからしばらく3人で、ただ呆然とテレビの映像を観続けていた。

 後で2階に上がってみると、私の部屋から何かの音楽が聞こえた。床にオルゴールが落ち、蓋が壊れて曲が流れ続けていたのだった。
 静まり返った暗い部屋で、歪な形のまま曲を奏で続けるそれはただ悲しく、同時に恐ろしくもあった。
 
 
 それからわずか半月後、祖父が突然他界した。まだ67歳だった。
 原因はタバコの吸いすぎによる肺気腫。私が物心ついた頃にはもう禁煙していたが、病院嫌いの祖父は肺を傷めたまま放置していたらしい。
 普段から階段の昇降だけでもぜえぜえと苦しそうにしていて、いつも収まるまで待っていた。それが当たり前だったし、おじいちゃんだから体力がないのだろうと思っていて、当時は病気だと気付かなかった。今なら無理にでも病院に引っ張って行くところだ。
 当時は祖母よりも仲の良かった祖父。倒れた翌日に亡くなってしまったため、お見舞いに行った時に渡そうとしていた「早く元気になってね」という手紙が書いて間もなく用無しになり、泣きながらゴミ箱に捨てた時のことが忘れられない。
 それから毎晩こっそり起き出しては祖父に寄り添うように仏壇の前に座り、震災に備えて祖母が買っておいた割チョコをかじりながら、回り続ける灯籠をぼーっと見つめていた。
 チョコはいつも祖父と祖母が食器棚の引き出しに買い置きしてくれていて、親に内緒で食べていた思い出のお菓子だ。私が実家を離れるまでずっと買い続けてくれていた。
 そんなエピソードを、割チョコが全部なくなってしまった言い訳にしておく。
 
 
 あまり大きくは取り上げられていないが、2005年の福岡県西方沖地震にも間接的に関わった。その時は大学の春休みで、ちょうど夫(当時は彼氏)が福岡に帰省していたのだ。
 私はと言うと、楽しみにしていた武道交流会のために朝から道着に着替え、意気揚々と準備を進めていたところだった。
「もっちゃん! 福岡県で震度6やって!」
「えっ……!?」
 リビングからの祖母の声に頭の中が真っ白になり、次に昔テレビで見た光景が蘇る。慌てて携帯で連絡を取ろうとするも応答がない。新潟県中越地震の翌年であったこともあり、嫌な想像ばかりが頭をよぎった。
 ――いや、まだ起こったばかりだから、今は家族と無事を確認し合っているに違いない。落ち着け、少し時間を置いてみよう。
 そう自分に言い聞かせて携帯を握り締め、今すぐ福岡に飛んで行きたい気持ちを抑えながら祈っていると、夫の方から電話がかかってきた。1時間にも2時間にも感じられたが、その間たったの5分だった。
「もしもし!? 大丈夫!?」
「あぁ、うん」
「お母さんと弟さんは!? 家は!?」
「大丈夫、ちょっと物が落ちてきたくらい。瓦落ちたり道路にヒビ入ったりはしとーけど」
 いつもののんびりした口調で、さらっととんでもないことを言う。
「それって全然大丈夫ちゃうやん!」
「大丈夫やって、別に当たって怪我したとかじゃないし」
「それならいいけど……いや良くはないけど、とにかく無事で良かったわ。
 ごめん、さっき何回も電話かけちゃったけど、大変やったよな」
「いや、そんなことないけど。単純に気付かんやったけんさ」
「ええええこんな時までそんな理由!? こっちが一体どんだけ心配したと思ってんの!」
「ごめんごめん。連絡しようと思ったら着信記録があったけん、そこで気付いたんよ。
 いやー、普段地震なんて来んけんさ、最初もっちゃん大丈夫かなと思ったよ。そっちが震源地かと思って」
「そんなわけないやん、こっちが震源でそっちが震度6やったら関西壊滅してるわ!」
「まぁそうなんやけどさ、それくらいこっちでは珍しいってことよ」
 夫の言う通り、福岡周辺は普段地震とは縁のない地域だったらしい。
 しかし夫の実家は福岡市東区、最も揺れの強かった場所の一つだ。もしこれが阪神と同じ直下型であったなら、ただでは済まなかっただろう。
 これが、大地震はどこにでも起こり得るのだと、安全な場所などないのだと思い知った時だった。
 
 
 これまで生きてきた中で大地震はいくつも起きているが、私はその際いずれも震源から離れた場所にいたため、震災の恐ろしさを知らない。だから実際に強い揺れを経験して、被災地の状況を見て衝撃を受けても、半月後には呑気に非常食の割チョコを食べていた。何かあった時のためにと車に積んでおいた大事な物は、普段も使うからと結局部屋に戻してしまった。大した被害に遭っていない、あるいは大事な人を災害で亡くしたことのない人の意識など、そんなものだと思う。
 だからそうしてぬくぬくと過ごしている人が、テレビやネットだけで悲惨さを見て全てを知った気になって、まるで流行に乗るかのように口を揃えて「がんばろう日本」などと言うことには憤りを覚える。もしかするとそういう人達に励まされることもあるのかもしれないが、私には他人事だと思っているからこそ出てくる言葉に思えてならない。それが被災者だけに直接向けられた言葉でないにしてもだ。
 もし私が全てを失った時に「ぬくぬく人」からそのようなことを言われたら、ふざけるなと叫びたくなるだろう。もうそんな気力もないかもしれないが。
 何もしないなら黙っていつも通りに過ごせばいいし、何かしたいなら黙ってやればいいのだ。

 さて、ぬくぬく人の一人である私だが、あの時の光景や気持ちは今も鮮明に覚えていて、最低限の地震対策は行っている。
 夫は最初の方こそしっかり対策していたが、時が経つにつれてすっかり防災意識が薄れてしまったようで、その辺りは気にしていない。一番困るのはクローゼットや最も危険な台所の扉を開けっ放しにしているのが多いことで、いつも怒っている。
 少々対策をしたところでここが震源になればマンションごと潰れるだろうが、そこまでの揺れでない場合はそれこそ落ちてきた物で怪我をする可能性があるし、何もしないよりはマシだろう。
 高い場所の扉は開いているのを見ただけで怖くなるので、ぬくぬく人なりに教訓として刻まれているのかもしれない。
 
 
 私には震災を語ることはできないし、いざという時のノウハウもない。このような話をしたところで誰の何の役にも立たない。
 ゆえにこれは最初の注釈通り、ただの個人的な振り返りであり、上手く文章に起こすことができなかった当時のための日記。
 言えるのは一つ、私はこの先もきっと震災を忘れないということだけだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください